別府と大友宗麟と黒田官兵衛孝高、

アクセスカウンター


TOPへ戻る


  鎌倉時代から約400年続いた大友氏、22代の義統(よしむね)の時、朝鮮出兵時の不始末を問われ豊臣秀吉によって改易され。 秀吉が亡くなると、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)は天下分け目の「関ケ原」へと突き進む。

大友氏再興の夢を賭けて西軍方に付いた義統は、再び豊後の地を踏み、立石(別府)に陣を構え。これに対し東軍の黒田軍も素早く動き、細川軍と共に実相寺山に対峙した。

慶長5(1600)年9月13日、両軍は石垣原で激突し、大友軍は吉弘統幸の活躍で優勢に戦いを進めていたが、数に勝る黒田、細川軍が徐々に巻き返し、統幸は境川付近で討ち死にした。

統幸の死で大友軍は壊滅し、総大将の義統は黒田如水に降伏し、徳川家康のもとに送られた後、常陸国宍戸(ししど)に幽閉され、その地で慶長15(1610)年に生涯を閉じた豊後の関ケ原といわれた「石垣原の合戦」の顛末。



大友宗麟公 鉄砲武者祭り



宇杵城の櫓


大友宗麟の武者人形絵巻



大友宗麟公祭典



毎年宗麟公祭りが行われる






南蛮貿易を活発に行い経済発展に尽くす



黒田官兵衛孝高の武者人形絵巻



大友家由来の大砲隊



武者行列彩る女御行列










TOPへ戻る





UP










立石(別府)の大友義統(よしむね)陣の跡




大友軍の名将吉弘嘉兵衛統幸の陣所跡




東軍の黒田軍、細川軍は実相寺山に対峙




大友軍が用いた大砲が別府に現存する







このホームページは別府大好きな七菜海が趣味で作成したものです。(別府を勝手に支援する会)




大友宗麟伝説

家督相続で父親の義鑑とそりが合わず、さらに後妻の子がかわいく思え、後妻の子に家督相続をしたいという思いに達し、家督相続事件が起こった。

父義鑑は、宗麟の家臣4人を集めて、宗麟を廃嫡し、後妻の子に家督相続をするということを申し渡した。4人の家臣は真剣に反対をしたが、聞き入れてもらえず。義鑑は4人が危険と感じ、呼び出し、始末しようと2人を呼び寄せ、討ち取り。このことを知った、残りの2人の家臣が追いつめられ、どうせならと刺し違える覚悟で大友館を襲い、義鑑と後妻、後妻の子を殺害。結局、残りの2人の家臣も謀反人で処罰され。父親の義鑑は、襲われ、重傷を負うも、すぐに死なず、臨終間際に宗麟に家督相続をするということを言い残して亡くなる。

事件の前、体調がよくなく別府で温泉療養をしていた。この事件が宗麟に深い傷を残したことは確かなようで。肉親に裏切られたと言う思いなのか、謀略で父を除かざるを得なかった、家督相続をしたときが20歳。

宗麟は戦場に出て戦う武将ではなく、政治家、謀略、戦場は、立花道雪という、武田信玄に絶賛されたほどの猛将がいた。家臣団が優れていたので、戦場に出たのはかなり少なく。出ても、後陣にいた。
戦場に出たのが、毛利との戦いで豊前と筑後の高良山に出陣したのと、竜造寺との戦いで筑後の高良山まで出陣したのと、日向の遠征と臼杵城での島津の攻防戦、

大友家は中小貴族からの出で、文武両道ということで武芸ばかりでなく、文芸も重んじられていた。

宗麟が家督相続をした2、3年後に当時、宣教師ザビエルとの出会いがあり。信仰に入ラなかったが、熱意を感じ、布教と貿易をすぐに許可し。この頃は貿易から得られる利益も目当てに布教を許可したと思われる。

宗麟が家督を相続した最初の頃は大友家の最盛期、肥後で反乱を起こした叔父を討ち取り、肥前を戦わずに手に入れ、大内家の滅亡のどさくさに豊前と筑前も手に入れ、さらに幕府から九州探題の職も手に入れ、あっという間に九州の覇者になった。九州の6か国の(豊後、筑後、肥後、肥前、豊前、筑前)覇者となる