別府から1時間、竹田市岡城跡があります。若き日の滝廉太郎が住んだ地を偲んで作られた荒城の月、別府の隣、日出町にお墓があります。

荒城の月

春高楼の花の宴
巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝分け出 でし
昔の光今いづこ


秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿ひし
昔の光今いづこ


今荒城の夜半の月
変はらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛
松に歌ふはただ嵐


.天上影は変はらねど
栄枯は移る世の姿
映さんとてか今も尚
ああ荒城の夜半の月

荒城の月

春高楼の花の宴
巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝分け出 でし
昔の光今いづこ


秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿ひし
昔の光今いづこ


今荒城の夜半の月
変はらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛
松に歌ふはただ嵐


.天上影は変はらねど
栄枯は移る世の姿
映さんとてか今も尚
ああ荒城の夜半の月
           



TOPへ戻る




竹田市岡城跡に建立されている滝廉太郎の銅像と歌碑 滝廉太郎と別府、

      
天守閣跡からの絶景はマチュピチュに思いを馳せる雲海の上にある

     
その石垣は数百年の歳月を経ても尚、堂々としている、山頂までは足腰が元気なうちに訪れてみたい

     
春、4月には岡城祭りが開催され武者行列が練り歩く


四季折々に彩りを添えて来る人の心の中に安らぎをもたらしてくれる


若干25歳でその生涯を終えた滝廉太郎の才能は多くの人に感動を与えてくれる

明治12年8月24日から明治36年6月29日
音楽家・作曲家

代表作
荒城の月
箱根八里
花 組曲 四季の第1曲

観光スポット
大分市 遊歩公園
日出町 暘谷城址
竹田市 瀧廉太郎記念館、岡城跡

東京府芝区南佐久間町に生まれ
瀧家は江戸時代、豊後国日出藩(現在の大分県速見郡日出町)の家老職であり、
父・吉弘は維新後内務地方官として現在の神奈川県や富山県富山市、
大分県竹田市などを移り住み瀧も一緒に各地を回ることになりました。
少年期を山紫水明の故郷竹田で修学し、
岡城を絶好の遊び場とし、四季に移ろう自然の中から音楽の天分を育みました。

15歳になると東京音楽学校(東京藝術大学)に入学
20歳のときに代表作である名曲「荒城の月」を完成させました。
この曲は竹田市の岡城を素材としており、
文部省編纂の「中学唱歌」に掲載されました。

21歳の4月になるとドイツのライプツィヒ音楽院に留学しますが、
2か月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされました。
帰国後は父の故郷である大分県別府で療養していました。

唱歌中心の明治期に日本語でのオリジナル曲を作曲するなど、
明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人です。

肺結核のため大分市府内町の自宅で逝去。享年25。


土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、
同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、

リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、

そして瀧廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址
同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。

昭和27年仙台城址に「荒城の月」詩碑との晩翠の胸像を建立。除幕式の日、
晩翠は病をおしてまで出席した。その際、
身にあまる ほまれをうけて ただなみだ 感謝をささぐ 一切の恩と詠みその場で号泣したという。

大分県では、竹田市の豊後竹田駅において、列車が到着する際の接近メロディとして歌詞付きでこの曲が流れる。
岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、
車が通過すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており
岡城からでもその音を聞くことが出来る。

大分放送のテレビの放送終了の時にも、長年この曲のメロディがインストルメンタルで流れている。
また、この歌に因んで名付けられた和菓子「荒城の月」も生産・販売されている。







UP






このホームページは別府大好きな七菜海が趣味で作成したものです。(別府を勝手に支援する会)