茶道、茶の湯、裏千家、表千家、武者小路千家、茶道具、作法、茶室、佗び寂びの世界、客のおもてなし、自然と一体、茶寮、庭園、

茶の伝来 栄西禅師が1100年代後半に中国からお茶の木を持ち帰り、京都の栂尾高山寺の明恵上人におくり、
植えたのが日本でのお茶の栽培の始まりといわれている。その後、他の地方でもお茶の栽培が行われたが、
栂尾のお茶を本茶、他の地方で栽培されるお茶を非茶と呼び、区別されていた。
 
茶勝負(闘茶)のはじまり

闘茶の3要素(茶室・道具・作法)
 闘茶が盛んになるにつれて、闘茶を行う場所の確保が必要となった。これが後の茶室の始まりである。


闘茶をするためにそれぞれの道具、たとえば茶碗・茶筅・茶器などが必要であり、その道具も自分の自慢の道具を出すようになり、
そういう面での競争もさかんとなった。


これが茶道具の始まりである。次に、闘茶を行うための順序・作法が次第に形作られ、これが茶の作法の始まりとなった


書院茶の湯(室町時代)、鎌倉時代のころから、茶を通じて人が集まるようになった。、
この茶寄合は、人間関係の形成など、単なる遊興の喫茶だけではなくなった。ここで初めて茶の湯が成立したといえる。


侘び茶へ(茶の湯の確立)
 琵琶法師の息子である村田珠光は、禅僧である一休宗純に参禅し、茶禅一味の境地を開いたとされている。


千利休の登場
  千利休は、堺の商人の子として生まれた。18才の時、武野紹鴎(たけのじょうおう)に入門し、
侘び茶を大成した。この二人の手により、茶道の工夫がさらに進んだのである。


織田信長が室町幕府を倒して政権を樹立すると、信長は茶頭として利休を召して、茶の湯の権威を誇った。


信長が本能寺の変によって倒された後も、豊臣秀吉に仕え、利休の茶の湯は一世を風靡することとなる。
このころになると、茶の湯と言えば千利休の茶の湯を指すことになり、茶の湯での天下統一がはかられた。


三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)
 その後、宗旦(そうたん)の息子のうち三人がそれぞれの流派をたて、千家は三千家にわかれることとなる。


これが、表千家・裏千家・武者小路千家の始まりである。


江戸時代以降の茶の湯
  江戸時代になると、古田織部、小堀遠州、藪内剣仲らにより大名の茶が盛んになった。


ちなみに、女性が茶の湯にかかわるようになったのは明治時代になってからである。


元来「茶湯」「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一は「茶の道」という語も使っていた、


江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。
海外では「Japanese tea ceremony(=茶の儀式)」として岡倉天心が紹介し、以後その名前で定着する。


主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は
個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、


茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。


現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。

和のおもてなし和食が世界文化遺産に認定されてから、茶の佗び寂、和敬静寂、主客一体、
茶道の作法が世界に広く伝わり茶と料理、茶懐石料理の発展に貢献していくのも和食の匠の使命


茶事の行事に欠かせない和菓子、茶菓子、甘味と日本茶、抹茶


茶事の発展と共に工夫開発された和菓子、見て味わい、食べて満足できるお菓子の世界


茶道の教授と、和菓子の匠が織り成す見事なハーモニー和菓子の世界



 




アクセスカウンター